鶴久子「空蝉の」の歌碑
年代 1902年11月 高さ 181センチ 幅 45センチ
碑面の読み下し

裏面の文面・読み

空蝉<うつせみ>の 世のうきことは 聞こえこぬ

    いわおの中も 秋風の吹く       久子

 あはれ今年は故皇后宮議御用掛鶴久子刀自の三年也けり刀自か女流の歌仙なりしことはあまねく人のしる処なれはこゝにい□すさて教を受し人々のいと多き中にも
 ことに□□親しかりし渋沢男爵夫人兼子ぬしの思ひたちにて刀自の為にいし文しるし建んと刀自のまな子光美のうへなひを得ておなし教子のしたしきかきりいひ合せて
 萬のことは夫人のもはらとりまかなひつゝこたひ向島百花園に石文建ることゝはなりぬ近き世□にの石文これも記念なと名のためにするたくひもいと多□るをこはひとすちのま
 こゝろより出て道のためお□たるゝ志又□□めてたくなんそも・・刀自か女子の歌人にして渋沢氏のかくまてつくさるゝをみれは鶴刀自の□のい□くのみならす此道のためにもいかはかり
 おもきをなさんといと嬉し此故よしを一言しるしてよと夫人のせひにこはるゝにつけても在し世のみ思ひ出られてなむ
    こゝろなき石もかい文み□してむ思はうかふ人のおもかけ  とこしへに千種の花のかけしめてつきぬにほひや世にかをるらん
明治三十五年十一月
御歌所哥人従七位 藤原 粲しるす

井上 正直
三井 捨子
三井 榮子
大倉 時子
喜谷 元子
田中 住子
玉塚 豊子
吉田 瀧子
吉田 貞子
北脇寿尾子
渋澤 兼子

 あわれ今年は、故皇后宮議御用掛り鶴久子刀自<とじ>の三年なりけり。刀自が女流の歌仙なりしことは、あまねく人の知るところなれば、ここにいわず。
 さて、教を受けし人々のいと多き中にも、ことに[ ]親しかりし渋沢男爵夫人兼子ぬしの思いたちにて、刀自のために石ぶみしるし建てんと、刀自の愛子<まなご>光実のうべないを得て、同じ教え子の親しきかぎりいい合わせて、よろずのことは、夫人の専<もは>らとりまかないつつ、こたび 向島百花園に石文<いしぶみ>建つることとはなりぬ。近き世□にの石文これも記念など、名のためにする類<たぐい>もいと多かるを、こは、ひとすじの真心より出でて、道のため、お口たるる志またロロめでたくなん。
 そもそも刀自が一女子の歌人にして、渋沢氏のかくまでつくさるるをみれば、鶴刀自の□のい□くのみならず、この道のためにもいかばかり重きをなさんといと嬉し。この故よしを一言<ひとこと>しるしてよと夫人のぜひに請わるるにつけても、ありし世のみ思い出でられてなん。
  心なき 石もかい文 み□してん
        思いはうかぶ 人のおもがげ
  とこしえに 千種<ちぐさ>の花の かげしめて
        つきぬ匂いや 世にかおるらん
 明治三十五年十一月  御歌所歌人従七位 藤原粲しるす
(人名省略)

解 説

○空蝉の(現身の)=命、よ(世・代)、人、身、から(骸・殻)空し、の枕詞。
○うきこと=憂きこと。
〇三年=三回忌。
○うべない=承諾。
○かぎり=ありったけ、すべて。
○こは=これは。
○鶴久子=(?〜一九〇〇)明治初、中期の歌人。幕臣蜂屋光世の妻。夫の歿後、その号鶴岡に因<ちな>んで鶴氏を称した。山田常典に学び、和歌を以て宮内省に仕え、また、本所松井町の家宅にて歌学を教授した。明治三十三年十二月一日歿、年令不詳。深川浄心寺に葬る。(平凡社『日本人名大事典』)
○渋沢男爵=子爵渋沢栄一(一八四〇〜一九二一) のことか。実業家。青淵と号す。埼玉県の人。明治初年 第一国立銀行を経営し、爾来、我国諸種の産業に関係す。退隠後は、社会事業と国民外交とに専念した。
○井上正直=徳川末期の老中。鶴舞藩主。父の後をついで六万石を領し、遠江<とうとうみ>浜松城主となる。明治四年、廃藩に際し職をやめる。(『千葉県誌』)

規格外漢字
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C
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姿
読み