「哥澤芝金之碑」
年代 1891年 高さ 260センチ 幅 145センチ
碑面の読み下し

裏面の文面・読み

 梁川榎本武揚君篆額
 初代芝金、姓は柴田名は金吉、文政十一子<ね>年江戸に生まる。幕臣某氏の三男なり。幼にして音曲を好みこれを能くす。そもそも小唄節は、遠く隆達<りゅうたつ>に起こりて世に行わること久し。されども、多く野調に流るるを嘆き、同好と謀り新古の調を究<きわ>め一流を興せしかば、その門に遊ぶ者多かりき。遂に芸名を芝金と称し、また芝太夫と改む。声曲名とともに揚り、土佐の大壕<だいじょう>、また土佐太夫となるの栄を荷<にな>う。晩年、哥澤太夫芝金と称<とな>う。安政未<ひつじ>年、時の町奉行、当流に幕府の士多く加わりあるを聞き、哥澤節を停<とど>めたるも暫くにして黙許せらる。のち故ありて、歌澤を哥澤に作る。
 明治の世に至り当流ますます盛んに行われ、その三年、猿若町中村座に於て、菊五郎、三津五郎等の演技に哥澤節の出語りを託せらる。これ梅暦辰己園の新曲なり。ついで守田座において、芝翫<しかん>、半四郎 濡衣松藤浪を演ぜしにも出場して、おのおの喝采<かっさい>を博せり。小唄節の劇に登る、これを初めとす。爾来<じらい>各座の聘<へい>に応じ、名優を輔<たす>けて衆多の耳目を感動せしむ。子の技倆大なり。殊に、魚川岸、四日市、各川通りの愛顧厚く、ために名声日々に高し。されば小唄節中興の祖となすも過言にあらざるべし。ああ、天、名手に年を仮さず。明治七年齢四十有七、病みて歿す。痛惜に堪えず。
 養子某あり、嗣ぎて二世となりしが、以来なにもなくして、養女芝勢以三世を襲<おそ>い初代の遺志を継ぎ、門葉ために茂り、粋士耳を傾けざるなし。これ初代の余徳にあらずして何ぞや。
 今や初代が作譜の名曲を示して、清響を世に遺さんとす。

  ほととぎす 今一声のきかまほし 月はさゆれど姿は見えず

  エエじれったい 何としょう しんきくさいじゃないかいな

 明治三十二年五月  余暇市人 渡邊光丸しるす
            半古墨僊 柳田無忝書 石工三瓶石垣刻

   

(省略)

解 説

○隆達=泉州堺にある日蓮宗顕本寺の僧。隆達が創めた小唄の節(隆達節)が、文禄から慶長にかけて行われ、近世小唄の源流をなした。
○同好=笹丸と寅右衛門と(『墨田区文化財調査報告書X』P69参照)。
○安政末年=安政六年(一八五九年)
○猿若町中村座=当園No16碑解説参照。
〇四日市=日本橋南の霊岸島川岸にあった町。魚川岸は、その隣と川向うにあった町。
○しんきくさい=思うにまかせずいらいらする。じれったい。
○菊五郎=五代目尾上菊五郎。
〇三津五郎=五代目坂東三津五郎。
○芝翫=四代目中村芝翫。
○半四郎=八代目岩井半四郎。
○芝金=柴田金吉(一八二八〜一八七四)幕臣柴田彌三郎の三男として江戸日本橋に生まる。笹丸の歿後文久二年に至り、歌澤二代となった寅右衛門こと能登と離れて別行動を起こした。世人はこの一派を柴派(のちに芝派)と呼ぶようになった。二代目は初代の養子が相続したが、中途で業を転じた。三代(?〜一九一〇)は、深川能井町廻船問屋南部屋久次郎の娘勢以子。二十才で養女となり三代を相続。(平凡社『大百科事典』)
○榎本武揚=(一八三六〜一九〇八)明治の政治家。旧幕臣。通称釜次郎、梁川と号す。オランダに留学、帰朝して海軍副総裁。大政奉還後、箱館五稜郭に拠って官兵に抗したが間もなく降り、維新後駐露公使として、ロシアと樺太・千島交換条約を結ぶ。諸大臣を歴任。海軍中将、子爵。晩年向島に隠棲。明治四十一年歿。年七十三。

規格外漢字
@
A
B
C
D
姿
読み
喜・き