山上臣憶良「秋の野に」 の歌碑
年代 1821年 高さ 147センチ 幅 53センチ
碑面の読み下し

裏面の文面・読み下し

山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)

秋の野に 咲きたる花を 指(およぴ)折り

    かき数うれば 七種(ななくさ)の花

芽(はぎ)の花 乎花(おばな)葛(くず)花 

 嬰麦(なでしこ)の花

  姫部志(おみなえし) また藤袴

              朝貌(がお)の花

             董堂けいぎ 書
              
窪 世祥 @


 
仕乃董堂先生絶筆也今茲辛巳四月先生始嬰疾至七月竟不起蓋
 自嬰疾已来先生亦自知其不可起予輩亦竊悲其無起色一日秋雨
 驟至微凉可人先生快然而起呼筆研書臣憶良所詠秋七艸和歌二
 首筆力勁健殆非病中之作且自謂日春秋之際墨水深花尋楓者有
 年令也臥床徒想思耳聊書此以舒感懐之慨且以慰旱情死後勒右
 樹之秋芳園中得與花結未了縁亦身後之幸也於是門人相議急入
 之石打摺成幅而請正先生時先生病加枕重但開目欣然一視而已
 鳴呼悲哉其A心酬志之態宛然在眼而其人已千古矣則門人如予
 輩者寧不對之堕涙如襄陽乎

 

   文政四年孟秋下澣       横井忠徳撰B書


 これ乃(すなわ)ち董堂先生の絶筆なり。今茲辛巳(こんじしんし)四月、先生嬰疾(えいしつ)を始め、七月に至りついに起たず。蓋(けだ)し嬰疾より已来(いらい)、先生もまた自らその起つべからざるを知るならん。予輩もまた竊(ひそ)かにその起色なきを悲しむ。一日、秋雨驟(にわ)かに至り微(かす)かに涼し。可人先生快然として起ち、筆研を呼び、臣憶良が詠ずる所の秋の七草の和歌二首を書す。筆力勁健(けいけん)ほとんど病中の作に非ず。且(か)つ自ら謂(い)いて曰く、春秋の際、墨水に花を探り楓を尋(たず)ぬる者は年令有るなり。床に臥し徒(いたずら)に想思するのみ。聊(いささ)かこれを書し以て感懐の慨(がい)を舒(の)べ且つ以て旱情(かんじょう)を慰む。死後石に勒(ろく)し、これを秋芳園中に樹て、花と結び未了の縁を得るもまた身後の幸いなり、と。

 ここに於て門人相議し、急ぎこれを石に入れ、打ち摺り幅となして正さんことを先生に請う。時に先生の病加わり枕重く、但(ただ)、目を開き欣然として一視するのみ。鳴呼(ああ)悲しいかな、そのA(きょう)心、志に酬(むく)ゆるの態、宛然(えんぜん)として眼に在りてその人すでに千古なり。則ち門人予輩の如き者、寧(いずくん)ぞこれに対して涙を堕(おとす)すこと襄陽の如くならざらんや。  文政四年孟秋下澣    横井忠徳 撰ならびに書

解 説

〇朝貌の花=朝顔、ひるがお、むくげ、ききょう等の説があるが、現在は ききょう説が有力である。
○絶筆=生存中最後に書いたもの。
○今茲辛巳四月=今年四月、中井董堂が歿した文政四年の四月にあたる。
○嬰疾=病にかかる。
○可人=善い人。
〇筆研=筆と硯と。
○和歌二首=出典万葉集。「芽の花」の和歌は、五七七、五七七の繰り返し六句からなる、旋頭歌(せどうか)といわれる和歌の一体である。
○旱情=ひからびた心。
○身後=死後。
○B心=満足する心。
○襄陽=襄陽硯山にある石碑の物語。晉の時代襄陽の守羊Cの徳を百姓が慕い建てて歳時に祭った碑。これを望む者が皆涙を流したことから名づけられた。
○孟秋=初秋、陰暦七月の異称。
○下澣=下旬。
○山上臣憶良=(六六〇〜七三三?)奈良時代前期の歌人。(臣=上古氏族制度における姓(かばね)の一種。天武天皇(六三一?〜六八六〕以降は、臣の名称は同じでも氏族制度のときと全く異なり、一種の爵位に似たものになった)憶良は遣唐使に従って入唐して新知識を得思想的な素材を取扱った長歌を多く残している。とにかく『万葉集』に於ては 特異な地位を占める歌人である。(平凡社『大百科事典』)
○抱一暉真=酒井抱一(一七六一〜一八二六)徳川末期の画家にして俳人。姫路城主酒井忠仰の第二子。字は暉真、俳譜に屠龍と号す。
また狂歌と浮世絵に、尻焼猿人(しりやけのさるんど)と称す。(平凡社 『日本人名大事典』)なお当園を「百花園」と名づけたのは、この抱一だったといわれている(当園No21碑解説参照)。また長命寺(向島五丁目)境内の「退鋒郎毛君痙髪塚」の「筆祖佩阿君像」は抱一の画による。

規格外漢字

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A
B
C
D
姿
読み
ほる
きょう
ならびに