塩谷 格一 

(別冊「銀河」より)

塩谷山南居さんのこと

 塩谷山雨居さんこと格一さんが亡くなってからもう十年もたちましょうか。奥さんから袖珍本「いたずら帖」をいただいたのが緑で「閑人私信」という、表紙一枚、本文一枚を重ねて二つ折りという木版手紙もいただきました。これは一月一回作ったつぶやきで、一年で終わってしまいました。塩谷さんは東京都の公園関係の仕事をしていましたが、辞めてから会社勤め。電車の中で、いい言葉を思いつくと手帳に控え、うちへ帰ってきては彫っていました.お酒はそんなに飲めないが好きで、阿佐ヶ谷に行きつけの店がありました。七夕などといえばグループで集まって、ふざけた歌など書いて遊んでいました。 

「例の春眠不覚暁の詩に井伏鱒二さんがこんな洒落た訳をつけています。
 ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
 トリノナクネデ目ガサメマシタ
 ヨルノアラシニ雨マジリ
 散ッタ木ノ葉イカホドバカリ
これだから明治生まれはいいですよねえ明治生まれ万才」

 「白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒はしずかに呑むべかりけりの境地もいいが、酒はよき友を肴にしてさしつさされつ ワイワイガヤガヤ呑むべかりけりも、またいいねえ」

 「いい一生を送る人がいる。つまらない一生を送る人もいる。つまらないといっても、いいといっても、しよせんはたから見てのこと、口をつつしもう」

 「オキシダントとかP・P・Mとかいっている都会に住んでいても、九月ともなると十五夜はいつだっけと暦を見る日本人。今年は三十日だとたしかめてから、井伏さんの詩を口ずさむ。”今日は仲秋名月初恋を偲ぷ 夜われら万障くりあわせ よしの屋で独り酒を呑む”」

「今月は良寛さんの言葉をお借りしました。

昨日之所是
今日亦復非
今日之所是
焉知非昨非

凡愚のわたしたちにはまことに都合のいい言葉です」          、

「木の芽がのぴたア芽がのぴた。草の芽のぴた芽がのぴたア。椿の根元の草そてつ、げんこつのばしてドッコイショ、こぶしの下ではえんれい草、頭をもちゃげてひとり言”今年のカラカラこたえたナ”」

酒井 抱一

1761〜1828

 姫路城主酒井忠仰の第二子として神田小川町酒井雅楽頭邸に生まれる。

 徳川末期の画家にして俳人。字は暉真、俳譜に屠龍と号す。また狂歌と浮世絵に、尻焼猿人(しりやけのさるんど)と称す。(平凡社 『日本人名大事典』)また長命寺(向島五丁目)境内の「退鋒郎毛君痙髪塚」の「筆祖佩阿君像」は抱一の画による。

 当初梅林であった当園を「梅は百花のさきがけ」という意味で、「百花園」と名づけたのは、抱一だといわれている。御成座敷設計。鞠塢を光琳の墓制作のため京都に派遣。千樹菴益賀「鳥の名の」の句碑に書を残す。

佐原 鞠塢

1762?〜1831

 天明年間に仙台より江戸に出、中村座芝居茶屋和泉屋勘十郎に奉公する。その後日本橋住吉町に骨董店を開き北野屋平兵衛と称する。この間に、当時の文人、加藤千蔭、村田春海、亀田鵬斎、大田南畝、大窪詩佛、酒井抱一、川上不白などとの交流を深めた。

 ある時、道具市を開いたところ賭け事の疑いがかかり骨董店を閉め、本所中の郷に隠居し、菊屋宇兵衛、略して菊宇と称した。それを鵬斎の助言により鞠塢と改めた。

 その後、寺島村に多賀屋敷と呼ばれていた土地を得て百花園を開いた。

辞世

 隅田川 梅のもとにてわれ死なば
        春吹く風のこやしともなれ