先頭へ戻る

『墨東歳時記』について

監修 岡野 他家夫

序にかえて
あとがき
ついきのうのように

特別寄稿 石森延男

著者略歴
明治34年1月1日 東京府下南葛飾郡寺島村(現、東京都墨田区東向島3丁目)の鎮守白鬚神社社掌今井直の長男に生まれる。

学歴、府立第三中学校、東京高等師範学校卒

職歴、府立第七中学校に奉職、昭和12年父没後、白鬚神社、高木神社、長浦神社の宮司となる。

 昭和36年7月没、享年60。

岡野 他家夫(監修)

明治34年、高岡市に生まれる。東京外語専修科修了。東大司書、日本出版会参事等歴任。現在国士舘大学教授。文学博士。
著書/近代日本名著解題(有明書房)・近代日本名著と文献(同上)・明治文学研究文献総覧・日本出版文化史などのほか多数がある。

石森延男(特別寄稿)

明治30年、札幌市に生まれる。東京高等師範学校卒。童話作家。
著書/石森延男童話集(全三巻・あすなろ書房)・慕わしき人々・ふるさとの絵・創作童話作法・コタンの口笛、その他。

以上は、昭和49年現在

 

 

 

 

 

 

 
『墨東歳時記』について

岡野 他家夫

 墨東」は「墨東」である「墨」は隅田川の意であることは云うまでもない。「墨東」といえば、現代読書子の多くは、すぐに、かの永井荷風の名作『墨東綺譚』を連想するであろう。思えば、これより早く明治42年、すでに荷風は「すみだ川」の一篇を書いて文壇に喧伝せられ、世評を呼んだ。しかも実は、同名「隅田川」の一作は明治36年10月号「文藝界」に発表せられているのである。おもうに隅田川は作者にとって好個の題材であったのであろう。

「土手へ上がった時には葉桜のかげは早や小暗く水を隔てた人家には灯が見えた。吹きはらふ河風に桜の病葉がはらはら散る。ーー正面に待乳山を見渡す隅田川には夕風を孕んだ帆かけ船が頻りに動いて行く。水の面の黄昏れるにつれて鴎の羽の色が際立って白く見える。」ーーー「すみだ川」ーーー

 隅田川に墨の字を當てたのは、おそらく江戸時代後期の幕府儒官で、林家中興の祭酒(大学頭)林述斎であろう。それからは文雅の詞人によって、隅田川は墨・墨の詞が多く記されるようになった。

 したがって、墨(墨)東といえば、まず隅田川中流の東岸あたりを指す雅称ということになろうか。何にせよ、隅田川は往古からの名所ではある。

 その墨東の情景の一斑(一部分)は、既に『江戸名所図会』はじめ『東都歳事記』とか、『江戸歳事記』『隅田川両岸一覧』などの古書によっても窺がい知られるものである。

頭へ戻る

 

 また、明治の世となるやね致仕(官職をやめる)して、隅田川の畔に隠棲して、自ら墨上隠士と称した成島柳北は、こよなく墨水の地を愛して「墨水烟火記」「墨水観月記」「墨上夜話」「墨上の秋色」「墨上の景况」などの文を草したものである。

 「我が墨の勝景の都下に冠たるや、児童走卒も亦之を識る、花に月に雪に雨に、一として佳ならざるなし、是を以て遊客四時絶えずーー」云々と、隅田川を賞したのであった。

 近代となってからも彼れ柳北をはじめ、依田学海や幸田露伴そのほかの文人墨客で、その土地を愛し、その地に居を定めた人も少なくなかった。

 さて、本書『墨東歳時記』は、「迎春の準備」に始まり「枯野」に至る、都合52項目におよぶ、江戸時代の末ごろから、明治の東京時代へかけての、いわゆる下町に行われた庶民大衆の、生活や慣習ー風俗と人情の土俗の様相(すがた)が鮮明に示されている。それも隅田川を中心とした地域を舞台として、叙述が展開されている。

 一年の春夏秋冬それぞれの行事や事物などが、わかりやすく記録された此の本は、それらのことを書くのに最も適わしい著者と考えられる、白鬚神社の宮司今井榮さんによって書かれたものである。まさに此の本は「歳時記」と「歳事記」とを兼ねた特徴をもつものと言えよう。

 日常の忽忙裡に、父祖の時代の往事を懐かしむ私たちは、ここに本書を得て、東都に存した在りし日の大衆の生活を想い庶民に親しまれた風物・土俗を眼前に彷彿するのである。

 私は本書を、一般教養層の読書人はもとより、青年学徒や、社会科を学習する生徒諸君などにも、味読を薦めたい良書と信ずるものである。

  昭和49年ふづき中浣          先頭へ戻る

 

 

 

 

 

 

 




墨東歳時記

  江戸下町の生活と行事

白鬚神社宮司  今井栄

序にかえて

 子供が大きくなったのが、戦争の終局近くから敗戦にかけてであり、孫の生まれたのが、敗戦後の混乱のまだ静まらない時期であった。日本の持っていた伝統が、善きも悪しきも、弊履の如く投げ捨てられた時代であり、まさに日本の経験した最悪の時代であった。私は自分の子や孫を見る度に、この人々の生きる今日の日本の姿と、私どもの育った過去の日本の姿とを比べてみるのである。私どもの育った時代は、学校で、ものを教わると同時に、家で明け暮れにしつけられた。私は自分が年を取るにつれて、親や祖母の口を通して、私の耳に吹きこまれた日常のしつけを、有難い賜物と考えるようになった。日常の立居振舞いから言葉使いの端くれに至る、ほんのささいなことにも、親や祖母の温かい眼が届いていたことを知って、私は私を育ててくれた親や祖母に感謝すると同時に、そういう世の中を作った、その当時の日本に感謝する。今の世の私どもはその日の生活に追われて、私どもの親や祖母が私どもに向けてくれたほどの眼を、私どもの子や孫に向けていないようである。私は、私が私の親や祖母から与えられた賜物を、私の子や孫に伝えられないのを恐れている。

 私は若い時、教壇に立って、おうけなくも人の子を教える身になったことがある。私はその時に自分の経験したところをここに記したい。私は、ちゅしょくの弁当をつかう時、子供らのはしの持ちかたに。ふと自分の注意を向けたのである。はしの持ちかたには、昔から正しい持ちかたというものが伝えられている。私は正しい持ちかたではしを持っている子と、変則な持ちかたではしを持っている子とを比較調査してみることを思い立った。幸いに学校にはそういう調査に資すべき学籍簿とか、過程調査の資料とかは整っている。その時に得た決論は、正しくはしを持つほどの子は、親たちの眼が温かくその子を見守っているとともに、その子も穏やかな性質であるということであった。

頭へ戻る

 

 

 

 

 

 子供が始めてはしを持つ年齢になった時、ともすれば変則な持ちかたに崩れたがるのを、根気よく直すほどの親は、誠実で思いやりが深い。親に教えられた通りに、自分のはしの持ちかたを正しく改めるほどの子はわがままなところがなく清純である。今日の日本で、はしを持ち始める年齢になった子に、正しいはしの持ちかたをしつけることのできる親がどれほどいるであろうか。

 私の子がこの本を読んで、年寄りの冷水(ひやみず)と笑うのは、私にはよく判っている。私の孫がこの本を読んで理解が行くほどの年配になる時には、私はこの世に生きていないことだけは、確実である。私はそうなった時の私の孫が、この本を読んでみて、おれのじじいも相当物好きな男だったのだな、けれど、おれのために、こんな本でも書き残して行ってくれたところを見ると、悪い男でもなかったらしいと、そう思ってくれれば、満足に思うのである。

  私はこの本の中で、江戸の末期から明治、大正へかけての、いわゆる下町の生活習慣をひとわたり見て歩きたいと考えた。そして主として、文化文政の前後から以降の年中行事と、隅田川を中心とした地域の名どころを調べてみた。この時代と、この地域とは庶民の生活の舞台であり、その年中行事には大衆の生活がにじみ出ている。私はこれらの場面のいくつかを描こうとしたのである。私はこの本を私の孫に読ませるといったが、そのゆえに、この本では、江戸っ子の生活に深い関係を持ち、明治の世までもその全盛を続けた、ある社会と、これに関連のある場面とについては、こういう社会に対する知識が、人間、自然と、どこからか得られるものであるので、わざと触れなかった。

 この本を書くためにいろいろと面倒なことをお願いした人々がたくさんにある。私はここで、それらの人々に厚く感謝の念を表したい。

先頭へ戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あとがき
 この本が一冊にまとまって、いよいよ世に出ることになった今日、私は亡くなった岡田三郎氏の霊前に、その第一本を献じなくてなはならない。もう、5年になる。私は、こんな内容の本を出したい。ついては、その挿絵に、隅田川沿岸の名どころの写真がたくさんに入り用である。一つ、その方を、貴君の手でこしらえてはくれまいかと頼んだ。岡田君は二つ返事で引き受けるとともにその場からすぐと、写真仲間の黒川君の店へ私を連れて行って、これこれの次第と、同好の諸君の協力かたまでも頼みこんでくれた。私は安心して原稿の整理にかかったのである。それだのにその夏の暑い最中に、まるでさらわれでもしたように、全く突然に、岡田君は亡くなってしまった。間もなく、私も病床に横たわる身となった。岡田君の遺族と和つぃのつながりも、私の病気が因をなして、去る者は日にうとしの例に漏れなかった。私は、病気が小康を得るに従って、退屈しのぎに、また原稿の整理を続けた。岡田君亡き今日、写真のことで、岡田君の遺族や、黒川君たちに迷惑を及ぼしたくなかった。それで、挿し絵に写真を用いることは、できるだけ止める方針をとった。さて、こうやって、一冊の本になってみると、私と同い年である岡田君を、今さらのように思い出すのである。

 挿し絵は江戸名所図絵と東都歳事記から複写したものが大部分を占めている。その理由は前述の通りである。私は江戸の面影、それも江戸の発展が頂点に達した時代の姿を、如実に残してくれたこの二種の書物の編者と画家とに、心からなる敬意を捧げるものである。明治になってからの風景は新撰東京名所図会によった。それ以外の写真や雑品は私の所有の中から選んだ。陰陽の人名は、故人になった人々に対しては、慣例に従って、敬称を用いていない。

頭へ戻る

 此の本が、ともかくも一冊の単行本にまとまって、読者諸賢の御叱正を願うところまで漕ぎつけるに至った。そのゆかりを作ってくれたのが毎日新聞の墨東版であり、書名『墨東歳時記』も同紙が選んだものをそのまま頂戴に及んだわけである。今年の9月3日から月余に及んで同紙に連載された本書の抜き書きに対して、灘山同支局長は左のような紹介の文を掲げられた。

 墨田区寺島町の白鬚神社今井栄氏が去る26年以来資料を集めていた墨東歳時記はほぼ編集も尾張、既報のように近く出版されることになっているが、この原稿のうちから、墨東5区内の古くから行われていた行事や、いまだ一般に知られていない名所名物などのいわれなど、珍しい話を抜き出して同氏に執筆してもらった。以下は同歳時記のいわば圧縮版というところ。

 記して、この際、謝意を表する次第である。

 本書の出版を引き受けてくれた松尾氏に、私は厚く感謝の意を表する。本の性質上、広く一般の歓迎を受くべき種類のものでないことは、この本を書いた当人の私が最もよく知っている。そのれもかかわらず、いやな顔一つするでなく、面倒な一切の用件を、病気上がりの私に代わって、とどこおりなく仕上げてくれた同氏の深切と誠実とを私は有難く思うのである。

 

先頭へ戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

ついきのうのように

     石森延男

 

 東京高等師範学校の入学試験は前年度の夏8月に学科試問が行われた。

 わたしは、そのころ札幌にいたので受験場は北海道庁の一室で施行された。わたしのほかに武田一郎と山本梅雄の二君がいた。漢文の問題中に孟子の中の一節が出て、これはいささか厄介だっし史記の「三度遺失」にはまいったが他科目の問題はさしたる難しさも感じなかった。

 三ヶ月ほどたって合格者の発表があったが、われわれ三人は三人とも首尾よくはいっていた。「百分の百、合格だなっ」と山本がいったのをおぼえている。

 合格したものは、翌年1月、口頭試問および身体検査を受けるために上京、学校に出頭しなければならない。雪の深い札幌から、日のうららかな東京に出てきてその暖かさと明るさにすっかり気をよくしたこともおぼえている。列をつくって試問室の前で自分の番を待っていると、わたしのすぐ後ろに背の高い和服を着て、鳥打帽をかぶったやつがひょこんとひかえている。みんな洋服を着ている中にこいつがひとり和服姿で飄然とつっ立っている。なんだか小さな本などを読んでいる。「田舎者じゃねえな」とわたしは直感した。どこやらあかぬけしている。わたしの志望した科は文科第二部というので国文と漢文を専攻するクラス、24名募集することになっていた。そこへ全国から応募するのだから変わったやつもおしかけてきたのだろうとわたしは思った。

 その和服姿の男が今井栄だった。全寮制時代であったのでみんな古ぼけた木造寮につっこまれた。50音順で割りふられ、わたしと今井とは四九室をあてがわれ、隣合わせに席を占める。田舎者のつねとしてわたしはあまり話をしかけなかったが、今井は、さかんになんのかんのと話してくる。

 向島のこと、百花園のこと、白鬚神社のこと、江戸っ子気質、銀座名物から植物園、動物園、川開き、言問団子……話だけではすまなくて、日比谷公園につれていく、三越に案内する。あるときは、イタリヤ歌劇のラ・ボエームにひっぱっていく。どうせ最低料金なので天国に近い桟敷で見たり聞いたり。なにを聞いてもなにを見てもこちらは珍しいものばかり、うるさかったが、しかしけっこうたのしかった。

 今井はよく日誌を書いていた。私も負けずに書いていた。書いていたが、今井の書くペン文字は実に小さい。顕微鏡でのぞかなければ読めないような極小の文字だ。みんな背が高いくせにこんな細い文字を書くなんてかれの特技だなと思って見ていた。それにひまがあれば、汽車の機関車の絵をペンで描いていた。どこやら子どもっぽいところがある。これは江戸っ子の無邪気なところかもしれない。

 ともかく今井の個性的なすなおな人間味にわたしはいつとはなしに心にひかれて親しくなり、さそわれるままに白鬚神社に遊びにいったり、ご馳走になったり、かるたとりをしたり、御両親にもあい、弟さんにも会い、やがて婚約者幸子さんにも紹介されたり……。

 今井は寮ではほとんど勉強らしい勉強はしない、そのくせ英語の時間などには当てられるとさらさらと読んだり訳したりする、癪にさわるぐらいだ。わたしなどは前夜、辞書と首びきしていてもよくわからぬところがあるのにと腹が立った。しかし考えてみれば東京の中学卒業、こちらは北海道の師範学校で、ほとんど英語など学習してはいなかったのだから今更へそを噛んでもいたし方あるまい。

 あるとき今井は、

 「おれのうちにいいレコードが入ったから聞きに来ないか。」とすすめる。

 「どんなレコードだ。」

 「チゴイネルワイゼンよ。」

頭へ戻る

 

 

 

 

 

 そういわれても、こちらはちんぷんかんぷん、聞きかえすのもおもしろくないので、だまっていると、今井は、例の調子で語ってくれた。チゴイネルワイゼンというのはサラサーテの作曲したヴァイオリン協奏曲だ、ただし作曲した年代ははっきりしていないが、それや甘美なものでジプシーの旋律やリズムをとりいれたもの、ヴァイオリンの効果や魅力をおしみなく表現した曲だぞと話してくれた。こうなると聞かずばなるまい。

 「聞かせろよ。」

と頼む。かれは、喜んでさっそく隅田川のうちにわたしをつれていってくれた。こんなところはまことに好意的で積極的であった。チニーかなにかのいい蓄音機だったので、音も生きていた、私は文句なしに魂が奪われた。生まれてはじめてヴァイオリンというものの響きに魅せられた。

 3年のときふたりで「童謡大会」を催した。講師に西条八十、本居長世、藤森秀夫の三氏、歌い手は本居みどりさん、きみ子さんにおねがいした。盛会であった。両嬢に大きなキューピーを三越で買い、今井と二人で抱えて帰ってきたことがある。

 こんなことを書いていてはきりがないからやめる。ただもうひとつ忘れがたい思い出を書いておしまいにしょう。

 大正12年3月、ともかく今井もわたしも高等高師を卒業することになった。わたしは高知県の田舎、田原という町の中学校に赴任することになり、かれは大分県の中津中学校にいくことになった。その夏休み、今井は東京に里帰りして、9月1日、中津にもどる途中、わたしのうちにたちよる。むし暑い日であったが、すき焼きを食おうということになり、石油こんろを縁先にもちだして、ジュージューやりはじめた。今井は酒がすきだったから極上の酒をたんまり用意してかんたいした。パンツ一つの裸でさて箸をつけようとしたとき、ぐらぐらっと地震が襲ってきた。ふたりは、「わあっ」と叫びながら、縁側から庭にとびおり、そのまま道に出て、ゆれ動く家を見上げていた。しばらくしてわたしの妻が、赤ん坊を抱きかかえてあたふたと外に出てきて、

 「あなたたちのんきね。石油こんろの火も消さないで飛び出してさ、すぐそばに赤ん坊が寝ているのに……」

と笑いながら文句をいう。こういわれてわれわれ野郎どもは顔色なかったことを思い出すのだ。

 このときの赤ん坊は長女ののみちで、20の夏チフスで昇天。

 それどころか、今井栄も、そのあとさっさとこの世を去っていってしまった。わたしといっしょに満州で教科書関係の仕事も束の間で、亡くなるとき会えなかったので、いまでもまだ隅田川の岸へ飛んでいけば今井は例の飄然たる和服姿で歩いているようなきがしてならない。

 いつか今井の家に泊めてもらったとき、たまたま夜火事が近くにあった。半鐘の音にこわがる小さな洋子さんと涼子さんを両側に抱くようにして、「こわくないよ、風が向こうに吹いてるからねー」と慰めたこともついきのうのことのように思われる。

 北海道からいっしょに入学した武田も山本もすでにいない。わたしだけがこうして生き残り、この6月には満77の年を迎え、「三度遺失」の域に達した。ふしぎな気がする。

 こんど今井の著書が三版を重ねるという、ついてはなにか思い出を書くようにと頼まれて書いたが、書くほどに懐かしさがこみあげてきて胸が苦しくなる。旧友はよきもの、せめて今井の書いたものを改めて読みなおし、冥福を祈ろう。

 今もって一つ、惜しいことがある。それは今井が神官の正装束をつけて榊を払う仕草を見なかったことである。

 昭和49年7月14日

先頭へ戻る